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東京高等裁判所 昭和47年(う)1296号 判決

本籍・住居《省略》

印刷業 二瓶一雄

昭和二二年一二月九日生

右の者に対する窃盗、爆発物取締罰則違反被告事件について、昭和四七年四月五日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人及び弁護人竹内康二から控訴の申立があったので、当裁判所は、検察官土本武司出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人竹内康二、同三角信行、同後藤昌次郎が連名で、被告人が単名でそれぞれ差し出した各控訴趣意書及び弁護人竹内康二が作成した控訴趣意補充書(その一)に、これに対する答弁は、検察官竹平光明が差し出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

各論旨に対し、当裁判所は、訴訟記録並びに原審及び当審取調べの各証拠を検討し、以下のように判断する。

一  訴訟手続の法令違反の主張(弁護人らの控訴趣意第二及び被告人の控訴趣意)について

(一)  別件逮捕について

所論は、原判決が、その犯罪事実第二(爆発物使用の事実)の証拠として掲げる被告人及びその共犯者とされる者ら(須藤正及び岩渕英樹)の捜査官に対する各自白調書は、憲法三三条、同三四条の各規定を潜脱し、刑訴法所定の捜査権行使の方法・手段の範囲を逸脱する違法な別件逮捕に基づき苛酷な取調べの結果得られたもので、証拠能力がないのに、これらの自白調書を、原判示第二の事実と被告人とを結び付ける証拠として、有罪認定の用に供した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があり破棄を免れない、というのである。

しかしながら、原判示第二の事実につき原判決が掲げる所論指摘の各供述調書については、原審段階において総て弁護人がこれを証拠として取り調べることに同意し、若しくは取調べに異議を述べることなく証拠調べを終了しているのであって、右所論は原審においてなんら主張がなかったものである。そして、後記のとおり、被告人は、昭和四六年一一月六日別件である原判示第一の自動車窃盗の事実で逮捕、同月九日勾留のうえ、同月二七日右事実により起訴されたが、捜査官らは、原判示第二の爆発物使用の事実につき、右起訴後の勾留を利用して取り調べ、火薬類取締法違反の罪名で、同年一二月一二日付の司法警察員に対する供述調書(一三丁のもの、以下「46・12・12員面」のように略記。)及び爆発物取締罰則違反の罪名で、同月一五日付の検察官に対する供述調書(以下「46・12・15検面」のように略記。)(いづれも自白調書)をそれぞれ作成し、同日右事実により逮捕、同月一七日勾留のうえ、更にその取調べを続行し、昭和四七年一月五日原判示第二の事実につき追起訴をしたこと、須藤正は、昭和四六年一一月一七日別件である前記自動車窃盗の事実で逮捕、同月二〇日勾留のうえ、同年一二月八日右事実により起訴されたが、捜査官らは、同年一一月二九日同人が右窃盗の事実について初めて自白したころから、前記爆発物使用の事実についても並行して取調べを開始し、右窃盗の起訴直前に火薬類取締法違反の罪名で46・12・7員面(一〇丁のもの)及び爆発物取締罰則違反の罪名で46・12・15検面(いずれも自白調書)をそれぞれ作成し、同日右事実により逮捕、同月一七日勾留のうえ、更にその取調べを続行し、昭和四七年一月五日右事実につき追起訴をしたこと、また、岩渕英樹は、昭和四六年一一月二五日別件である前記窃盗の事実で逮捕、同月二八日勾留のうえ、同年一二月一四日右事実により起訴されたが、捜査官らは、同月七日同人が窃盗の事実につき初めて自白したころから、前記爆発物使用の事実についても並行して取調べを開始し、同月一五日右事実につき否認のまま逮捕、同月一七日勾留のうえ、46・12・21員面並びに46・12・23検面でそれぞれ自白を得、昭和四七年一月五日右事実につき追起訴したことを認めることができる。

右の事実によると、被告人については、別件窃盗の起訴前の勾留期間は全く本件の取調べに流用されておらず、ただ別件の起訴後の勾留期間中一九日間にわたり別件と並行して本件の取調べが行われたにすぎない。須藤については、別件起訴前の勾留期間の後半から別件に並行して本件の取調べを行い、更に、別件の起訴後の勾留期間中八日間別件と並行して本件の取調べが行われたのみであり、また、岩渕については、別件起訴前の勾留期間の大部分は専ら別件の取調べに費やし、別件起訴の翌日には本件で逮捕、勾留のうえ、専ら本件につき取調べているのであって、以上の捜査の経過・態様及び別件の窃盗事件が、その罪質・態様・被害額等に照らし決して軽微な事件などということはできず、逮捕状請求書等記載の疎明資料などに照らし、逮捕・勾留の理由及び必要性を十分肯認しうる(なお、被告人及び須藤については、別件起訴後の勾留についてもその理由及び必要性を肯認することができる。)のであるから、それ自体適法性に欠けるところはなく、これに結局別件につき公訴が提起されていること、後記のとおり、別件の自動車窃盗と本件である爆発物の使用とは、社会的事実として一連の密接な関連があると考えられることを総合勘案すると、捜査官らが、専ら本件の取調べに利用する目的又は意図をもって、逮捕・勾留の理由又は必要性の乏しい別件でこれらを逮捕し、勾留請求をしたものとも(須藤、岩渕の場合)、また、検察官において、右同様の目的・意図をもってことさらに別件を起訴し(被告人及び須藤の場合)、その身柄拘束を利用して本件につき取調べを行ったものとも認められないから、被告人及び須藤、岩渕の捜査官に対する各供述調書が、所論主張のごとき違憲、違法な別件逮捕・勾留によって得られたものである、などということはできない(最高裁昭和二六年(れ)第二五一八号同三〇年四月六日大法廷判決・刑集九巻四号六六三頁、同昭和四九年(あ)第二四七〇号同五二年八月九日二小決定・刑集三一巻五号八二一頁参照)。してみれば、所論各自白調書は、いずれも証拠能力に欠けるところはないから、所論はその前提を欠き、失当である。

(二)  自白の任意性について

次に、所論は、原判決の挙示する各証拠のうち、被告人及び自白をした共犯者とされる者ら(原判示第一の事実につき須藤、岩渕、外狩、第二の事実につき須藤、岩渕)の捜査官に対する各供述調書及び被告人の原審公判廷における自白は、いずれもその任意性に疑いがあり、証拠能力がないのに、これらを証拠として有罪の認定をした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があり破棄を免れない、というのである。

しかしながら、この点についても、原審段階においては、所論指摘の各供述調書につき総て弁護人がこれを証拠として取り調べることに同意し、若しくは取調べに異議を述べることなく証拠調べを終了しているのであって、被告人の原審公判廷における原判示の各事実をほぼ全面的に認める旨の供述(但し、爆発物使用の目的については否認。)の任意性に関してはもとより、右所論は原審においてなんら主張がなかったものである。そして、原審において取り調べた各証拠及び当審における事実取調べの結果を総合すると、以下の事実を認めることができる。すなわち、

1  被告人の自白 被告人は、前叙のとおり、昭和四六年一一月六日原判示第一の自動車窃盗の事実につき逮捕、勾留のうえ取調べを受けたが、同月一六日ころには盗難車と思われるコロナに須藤らと乗車したことがある旨の自己に不利益な供述をしており、結局同月二二日西海警部補に対し右事実を自白するに至った(46・11・22員面六丁分)こと、この間警視庁麹町警察署の拘置監に勾留され、連日警視庁において取調べを受けたが、押送に要する時間等を考慮すると、取調べの時間が一日一〇時間を超えたことは殆んどなく、午後からの取調べも二度あり、夜の入房が午後一一時を過ぎたことは一回のみであったこと、前叙のとおり、同月二七日窃盗の事実につき東京地方裁判所に起訴されたのち、原判示第二の爆発物使用の事実について更に取調べを受け、同年一二月九日ころ北岡均巡査部長に対し、同年五月二六日夜の警視総監公舎付近における交通事故について、自己に不利益な供述をし始め、同年一二月一二日前記西海に対し、火薬類取締法違反の罪名のもとに、原判示第二の事実を自白したが(46・12・12員面、一三丁のもの)、この間も殆んど連日前記捜査官らの取調べを受けたものの、取調べのない日が一日、午後からの取調べが三日間もあり、その取調べ時間については、前記窃盗事件の場合と比較してかなり緩やかなものがあったこと、その後、被告人は、同月一五日東京地方検察庁検察官山本達雄に対し、爆発物取締罰則違反の罪名のもとに、原判示第二の事実について改めて自白をし、以後、右事実の証拠として原判決が挙示する、爆発物取締罰則違反の罪名による46・12・15、46・12・23、46・12・29各検面及び46・12・16、46・12・18、46・12・20、46・12・27各員面(以上いずれも謄本)において右自白を維持し、前叙のとおり、同四七年一月五日爆発物取締罰則違反の事実につき追起訴されたが、その間の取調べについても、取調べのない日が二日間あったほか、一日一〇時間を超える取調べは一回のみであったこと、

2  須藤正の自白 同人は、前叙のとおり、昭和四六年一一月一七日前記自動車窃盗の事実につき逮捕、勾留のうえ取調べを受けたが、同月二九日ころには松永寅一郎警部に右事実を自白した(46・11・29員面、四丁のもの、謄本)こと、この間、警視庁赤坂警察署の拘置監に勾留され、警視庁及び麹町警察署において殆んど連日取調べを受けたものの、一一月二八日には一日取調べを休んでおり、取調べの時間が一日一〇時間近くに及んだのは三日間で、帰房が午後一一時を過ぎたことは一回のみであったこと、前叙のとおり、同月二九日ころから、爆発物使用の事実について窃盗の事実と並行して取調べを受けたが、翌三〇日ころには松永警部に対し、早くも前記五月二六日夜の交通事故の件につき自己に不利益な事実を認め、同年一二月七日には右松永に対し、火薬類取締法違反の罪名のもとに原判示第二の事実につき自白したこと(46・12・7員面、一〇丁のもの、謄本)、この間において連日前記捜査官らの取調べを受けたものの、取調べの時間が一日一〇時間近くに及んだのは二日間で、帰房が午後一一時を過ぎたことは一回のみであったこと、その後、須藤は、東京地方検察庁検事久保裕に対し、爆発物取締罰則違反の罪名のもとに改めて自白をし(46・12・15検面、謄本)、以後、原判決が挙示する同罪名による46・12・22、46・12・24、46・12・25、46・12・28各検面及び46・12・16員面(以上いずれも謄本)において、右自白を維持し、前叙のとおり、同法違反の事実により同年一二月一五日逮捕、勾留のうえ、同四七年一月五日追起訴されたが、この間の取調べについては格段に緩やかなものがあったこと、

3  岩渕英樹の自白 同人は、前叙のとおり、昭和四六年一一月二五日前記自動車窃盗の事実につき逮捕、勾留のうえ取調べを受けたが、同年一二月七日に「現在の心境について」と題する供述書を作成してこれを自白し、同月一〇日前記山本検事に対しても右自白を維持し(原判決挙示にかかる46・12・10検面、謄本)、同月一四日前叙のとおり起訴されたこと、そして、同月七日ころからは爆発物使用の事実についても並行して取調べを受け、同月一五日爆発物取締罰則違反の罪名により否認のまま逮捕、勾留のうえ更に取り調べられ、同月二一日松永鐵美巡査部長に対して右事実を自白し(46・12・21員面、謄本)、その後久保検事に対しても右自白を維持した(原判決挙示にかかる46・12・23、46・12・28、46・12・29各検面、謄本)のち、同四七年一月五日追起訴されたこと、この間、同人は警視庁の拘置監に勾留されて取調べを受けたが、その取調べの時間等は、被告人及び須藤らとほぼ同様であったと認められること、

4  外狩直和の自白 同人は、同四六年一一月二五日前記自動車窃盗の事実につき逮捕、勾留のうえ取調べを受けたが、翌二六日には早くも自動車を盗む相談をしたなどと自己に不利益な事実を供述し、同年一一月三〇日大塚喜久治警部補に右事実を自白したが(46・11・30員面、謄本)、同月三日東京地方裁判所において開かれた勾留理由開示法廷において一たん否認をしたのち、翌四日には再び自白に転じ、以後山本検事に対してもその自白を維持し(原判決挙示の46・12・11検面、謄本)、同月一四日右窃盗の事実につき起訴されたこと(なお、外狩については、同月一五日前記爆発物取締罰則違反の事実につき逮捕、勾留のうえ取調べを受けたが、同人は当初からアリバイを主張し、これが立証されたため、右事実については起訴を免れた。)、その間、外狩は警視庁神田警察署の拘置監に勾留され、殆んど連日警視庁において取調べを受けたが、その取調の時間等は前述するところとほぼ同様であったと認められること。

以上の事実によれば、被告人及び須藤、岩渕、外狩らが自白するに至るまでの間に、所論のように長期間勾留されていたとか、常軌を逸するような長時間の取調べを受けた事実があるとかいうことはできない。更に、被告人及び須藤は当審において、また、岩渕、外狩は東京地方裁判所刑事第二部に係属した窃盗等被告事件(以下、「東京地裁係属事件」という。)の審理に際し、それぞれ所論に沿う供述をしているところ、関係証拠を子細に検討してみても、被告人らに対し、捜査官、特に警察官らが拷問その他自白の任意性を失わしめるに足る程度の強要、脅迫を加えてその自白を得、検察官は単にこれらを下敷きにして自白調書を作成したとの所論主張の事実を認めることができないのであって、被告人らの供述中これに反する部分は到底信用できない。

しかしながら、所論にかんがみ、更に検討してみると、被告人及び須藤が爆発物使用の事実につき自白をした経過は前叙のとおりであって、当初、司法警察員の側で火薬類取締法違反の罪名により供述調書を作成したのち、検察官調書を作成する段階で、罪名を爆発物取締罰則違反と改めている事実が認められるが、その間の経過については以下のとおりである。すなわち、被告人の当審第八回ないし第一三回公判調書中の各供述部分、証人須藤正の当審第五八回ないし第六二回公判調書中の各供述部分(以下「須藤正の当審~公調証言」のように略記。)、北岡均の当審⑮、⑯公調証言、西海喜一郎の当審⑰~⑲公調証言、山本達雄の当審~公調証言、松永寅一郎の当審~公調証言、久保裕の当審~公調証言、証人小出英二の東京地裁係属事件第一四三回ないし第一四七回公判調書中の各供述部分(以下「小出英二の東京地裁係属事件~公調証言」のように略記。)、被告人の46・12・12員面(一三丁のもの、謄本)及び須藤の46・12・7員面(一〇丁のもの、謄本)によれば、被告人は、昭和四六年一二月一二日前記麹町警察署において、西海警部補、北岡巡査部長らから取調べを受けたが、その際、同人らは爆発物取締罰則一条及び火薬類取締法五九条等の規定を示したうえ、火薬類取締法違反か爆発物取締罰則違反か鑑定まちで今は分らないが、いずれにしても自分がやったことはやったなりに責任を負うべきだ、などと言って、本件が死刑又は無期若くは七年以上の懲役又は禁錮の重刑を規定した爆発物取締罰則一条違反に該当せず、これより遥かに法定刑が軽い一年以下の懲役又は一〇万円以下の罰金又はその併科を定めた火薬類取締法五九条違反に当たる旨を仄めかして、火薬類取締法違反の罪名のもとに被告人の自白を求めたため、被告人としても刑が軽減されることを願い、かつ、捜査官らの厳しい追及から逃れたい気持も加わって、同日右罪名のもとに自白をし、前記46・12・12員面(一三丁のもの)が作成されたこと、また、須藤は、同年一二月七日麹町警察署において、小出英二警部補、福島勝三巡査部長らから取調べを受けたが、その際、小出は警務要鑑中の火薬類取締法五九条の部分を示し、爆発物取締罰則一条違反の法定刑との違いを説明するなどして、火薬類取締法違反の罪名により自白することを求めた結果、須藤も前記被告人と同様の気持からこれに応ずることとし、その直後、松永寅一郎警部に対し火薬類取締法違反の罪名のもとに自白をしたが、その際、右供述調書が後に改ざんされることを虞れる余り、同調書の末尾に、「私がいままで警視総監の家に爆弾を仕掛けた話ができなかったのは二瓶や福冨さんからこの罪は爆発物取締という法律でやられこの法律では無期刑になるということを聞いていたので恐ろしくなって話せませんでした。ところが本日の調べでは火薬取締という法律で爆発物取締ではないということなので話すことにしたのです。」という供述を録取させたうえ、調書の各葉毎に自己の指印で契印を施したこと、右各自白ののち、右罪名のもとに、被告人について、46・12・13(二通、一三丁及び五丁のもの)、46・12・14、46・12・15(二通、一六丁のもの及び弁解録取書)の各員面が、また、須藤については46・12・9(一一丁のもの)、46・12・10、46・12・11、46・12・12、46・12・13の各員面がそれぞれ作成されたこと、ところが、前記山本検事は、同年一二月一三日ころ麹町警察署の前記松永警部から、被告人及び須藤を公舎事件につき火薬類取締法違反の罪名のもとに自白させたこと及び同人らを爆発物取締罰則違反の罪名で逮捕する積りである旨連絡を受けたが、当時右爆発物の威力等について鑑定結果がでていなかったとはいえ、本件を法定刑が格段に軽い火薬類取締法違反の罪名のもとに取り調べていることに疑問を抱き、異例のことであったが、被告人らを逮捕する前に自らこれを取り調べて直接心証を得たいと考え、同日前記久保検事に右の事情を説明し、同検事をして須藤の取調べに当たらせる一方、自らは東京地方検察庁の自室に被告人を呼び出し、警察では火薬類取締法違反で取り調べられているが本件は爆発物取締罰則違反であり、その刑が重い旨を告げて被告人の注意を喚起したのち取り調べたところ、被告人は、罪名の点は別としてやったことはやったこととして仕方がないと前置きし、同検事の取調べに素直に応じ、逐一原判示第二事実につき自白をしたので、爆発物取締罰則違反の罪名のもとに同日その旨の供述調書を作成し、これを読み聞けたところ、被告人は間違いないことを認めこれに署名、指印をしたこと、同日同罪名で被告人を逮捕、引き続き勾留のうえ、同月二三日及び二九日の両度にわたり、同検事は被告人を取り調べたが、被告人はいずれも素直に事実関係につき供述をし、何ら異議を述べたりはしなかったこと、他方、久保検事は、前記山本検事の指示に従い、同月一五日麹町警察署に赴き、同所で須藤の取調べに当たったが、その際爆発物取締罰則違反の罪名で取り調べることを改めて告げてその注意を喚起したところ、須藤は格別異議を述べたりすることもなく取調べに応じ、逐一前記事実につき自白をしたので、爆発物取締罰則違反の罪名のもとに同日その旨の供述調書を作成し、これを読み聞けたところ、須藤は間違いないことを認め、これに署名、指印をしたこと、同日、同罪名で同人を逮捕し、同月一七日、勾留質問の前に同検事が弁解録取書を作成しようとしたところ、須藤が爆弾を仕掛けるのは火薬類取締法違反ではないかと質問したので、同検事は自分は爆発物取締罰則違反と思うと述べ、重ねてその見解を明らかにしたが、須藤は格別異議を述べず、その後、同検事は同月二二日、二四日、二五日、二八日にも須藤を取り調べたが、その供述内容や供述態度に変化はなく、取調べを拒否するようなことは全くなかったこと、右一二月一五日を境に、警察側は原判示第二事実につき爆発物取締罰則違反の罪名で次々と供述調書を作成したが(二瓶については、46・12・16、46・12・18、46・12・20、46・12・21、46・12・22、46・12・24、46・12・27等)、これらはいずれも火薬類取締法違反の罪名で作成してあった従前の調書を書き写し、これに爆発物取締罰則違反等の罪名を記載したものであって、実質的な取調べがなされた訳ではなかったこと、以上の事実を認めることができ、被告人及び須藤の前掲供述中右認定に反する部分は信用できない。以上によれば、警察官による取調べが、所論主張のように偽計を用い故意に被告人らを欺き、又は火薬類取締法違反による起訴を約束したなどということはできないとしても、取調べ方法としては瑕疵重大な利益誘導を伴うものといわざるを得ないのであって、被告人らとしては、本件が爆発物取締罰則一条に比較して法定刑が格段に軽い火薬類取締法五九条により処断されるものと信じ、又はこれを期待したとしても無理からぬものがあり、そのために自白をするに至ったのではないか、との疑念を払拭し去ることができない。してみると、警察官の右のような取調べは公正な捜査とはいえず、社会通念上妥当を欠く手段に依拠して自白を得たものであり、被告人らの心理に及ぼす影響も決して軽視しえないものがあるうえ、警察官らの厳しい追及と相まち、虚偽の自白を誘発する蓋然性が高いといわざるを得ないから、被告人及び須藤の前記火薬類取締法違反の罪名のもとになされた自白はその任意性に疑いがあり、これを録取した各供述調書は、その後警察官らがこれらを爆発物取締罰則違反の罪名のもとにいわば書き直した各供述調書とともに、証拠能力がなく排除さるべきものといわなければならない。しかしながら、警察官に対する自白の任意性に疑いがあるからといって、直ちに検察官に対する自白の任意性を欠くものとすることはできないのであって、ことに、本件においては、前叙のとおり、検察官は取調べに当たって格別の配慮を巡らし、この点につき被告人らの注意を十分喚起したうえで、事実関係につき具体的かつ詳細に供述を求め、その際、被告人らは取調べに対し異議を申し立てたりすることもなく、これが爆発物取締罰則違反に該当する事実であることを十分認識したうえ自白をした経過が認められるのであるから、警察段階における違法は、原判決挙示にかかる被告人及び須藤の前記検察官に対する各供述調書の証拠能力に何らの影響を及ぼすものではないといわなければならない。してみると、原審において原判示第二の事実につき取り調べられた46・12・16、46・12・18、46・12・20、46・12・21、46・12・22、46・12・24、46・12・27、47・1・2各員面謄本(うち原判決挙示にかかるものは右のうち46・12・16、46・12・18、46・12・20、46・12・27各員面謄本)は、いずれも証拠能力がないものとして排除さるべきであり、原判決はこれを証拠に採用し有罪認定の用に供すべきではなかったのであるが、右各供述調書を除外しても、被告人の原審公判廷における自白を含む原判決が挙示するその余の証拠により、原判決は、原判示第二の犯罪事実につき同様の結論に到達したものと考えられるから、右の誤りは判決に影響を及ぼすものとはいえない。なお、所論は、原審公判廷における被告人の供述についても任意性を争うようであるが、その任意性を疑わしめるような事由を何ら見出すことができない。論旨は理由がない。

二  事実誤認の主張(弁護人らの控訴趣意第一及び右補充((その一))並びに被告人の控訴趣意)について

所論は、要するに、原判示第一及び第二の各事実につき、これらが被告人の犯行であると認めるに足りる証拠は、原判決が挙示する被告人の捜査官に対する各供述調書及び原審公判廷における供述並びに須藤正、岩渕英樹(原判示第一、第二の各事実につき)、外狩直和(原判示第一の事実につき)の捜査官に対する各供述調書しかないが、これらはいずれも信用性がなく、しかも、被告人及び右須藤らには、犯行当日のアリバイがあるから、右の各犯罪事実と被告人との間の結びつきは認められず、被告人は無罪であるのに、これを有罪とした原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり破棄を免れない、というのである。

そこで、以下に順次検討をする。

(一)  各犯行の客観的側面と捜査の経過

原審において取り調べた証拠(但し、前述の証拠能力を欠くと認めたものを除く。)及び当審における事実取調べの結果(但し、立証趣旨を捜査経過のみに限定したものを除く。)によれば、以下の事実を認めることができる。すなわち、

1  原判示第一の事実中、昭和四六年五月七日夜東京都小金井市本町四丁目五番一―一七伊藤照子方前路上において、同人が所有者広田静潤より借用中の普通乗用自動車(コロナ・多摩五せ四三二三、時価約六万円相当、以下「四三二三車」という。)一台が何者かの手により窃取されたこと、原判示第二の事実中、福冨弘美が雑誌記者であって、桐野敏博の知人でもあり同人らの思想、行動を支持していたこと、被告人らは、桐野が京都方面の学生運動組織から入手した爆弾製造方法の解説書「薔薇の詩」を、学習会の際に研究したりしていたこと、前記四三二三車は、同年五月二六日夜(正確には同月二七日午前二時三〇分ころ)、同都千代田区一番町二三番地所在の警視総監公舎付近の路上でタクシーに追突された際、四三二三車に乗車していた二人連れの男が逃走したため、そのまま現場に放置されたこと、被告人らが同年七月中旬ころ、他から資金の援助を得て中古車(コロナ、多摩五ひ四六八〇、以下「四六八〇車」という。)を購入して使用していたこと、そして、右四六八〇車に乗車して来た何者かが、同年八月七日午前一時五七分ころ単身前記公舎に赴き、黒色火薬を有合せの空罐に詰め手製の雷管を装着し、乾電池とタイムスイッチを組み合わせた時限起爆装置付の爆弾一個(以下「本件爆弾」という。)を、一定時間経過後爆発するように調節したうえ、同公舎敷地内の玄関脇、建物の西南角に近接した地点に置き、爆発物を使用したこと、

2  原判示第二の犯行後、被告人らの逮捕、起訴に至るまでの捜査の状況等については、八月七日の夜、右公舎内で宿直をしていた関昭夫巡査が、本件爆弾を右の場所に置いた直後の犯人の姿を発見し、一たんこれを捕えかけたが、西側正門のところで振り切られ、犯人は公舎前付近の車道で待機していた普通乗用自動車で逃走をしたのであるが、その際、その車両番号を「多摩、四九八〇」と読み取った関巡査は、急いで公舎に立ち戻り、一一〇番でその旨及び犯人甲は小柄で髪が短く白っぽい半袖シャツに黒ズボンを着用しており、車内で待機していた犯人乙の人相は不明である旨を警視庁に通報したこと、そこで、警視庁では直ちに緊急配備態勢を敷き、公舎付近一帯において右車両等の検索に当たったところ、同日午前二時二五分ころ、警視庁四谷警察署勤務の巡査が、新宿区坂町二五番地株式会社江戸屋新宿営業所先の通称靖国通りの車道上に、新宿方面に向けて放置されていた前記四六八〇車(RT20型、シルバーメタリック塗装)を発見し、番号が酷似していることや、エンジンが暖かかったことなどから、前記逃走車かも知れないと考え、車内を調べてみると、キイを差し込んだままになっており、車中に須藤正名義の車検証写を発見したため、同人は直ちに四谷署にこの旨連絡をし、同署の警察官をして同日午前二時三五分過ぎころ、北区上中里二丁目四三番一号の須藤方へ電話連絡をさせたところ、右電話中に須藤が帰宅して電話に出、「四六八〇車は石神井の福冨に貸してある、住所は知らないが道案内はできる。」と答えたこと、同日早朝麹町署の捜査員が須藤を伴い、練馬区石神井一丁目四九八番地笠尾荘の前記福冨方へ赴き、両名を麹町署に呼んで事情を聴取したが、須藤は、四六八〇車は七月二八日ころ福冨に貸した、八月六日夜は被告人方にいた旨、また、福冨は、須藤から借りた右の車を八月六日午後新宿コマ劇場付近で盗まれた旨それぞれ説明したこと、一方、犯行直後ころ四六八〇車が遺留されていた前記場所付近で聞き込み捜査中の捜査員が、同所から少し新宿寄りで飲食店を経営している杉本洋子と客のホステス本橋ヒデ子が、同日午前二時少し過ぎころ店を出ようとしていたところ、前記靖国通りの南側歩道上を、二人連れの若い男が、小走りで後を振り返りつつ新宿方向に立ち去るのを至近距離から目撃した旨の情報を得たこと、更に、翌八日には、前記福冨の住居から程遠からぬ練馬区関町四丁目六四四番地国場石油株式会社エッソ関町給油所の従業員髙橋賢蔵から、八月七日午前零時少し過ぎころ、コロナ四六八〇車に給油をしたが、同車には三人の男が乗車しており、「ハマナコ」或いは「ハマナカコ」に行くと言っていた旨の通報があったこと、右八月七日、麹町署に警視庁捜査一課等からの応援を得て準捜査本部が設けられ、多数の警察官が本件の捜査に従事したが、前記犯行に使用されたと考えられる四九八〇又は四六八〇のナンバーを有する他の普通乗用自動車については総て嫌疑が晴れ、結局前記四六八〇車が本件犯行に使用された蓋然性は極めて高いことが判明したほか、同年九月に入って、前記髙橋賢蔵の供述に基づき、犯行当夜各地の若者の音楽祭などに赴くため使用された観光バスについて聞込み捜査中、東京近鉄観光バス株式会社の運転手東郷隆興から、八月七日午前一時過ぎころ、渋谷区神宮前の表参道から岐阜県中津川付近の椛(はな)の湖で開催されるフォークジャンボリーのためバスを出発させたが、出発直前に多摩ナンバーのコロナを見た旨の供述を得たこと、また、そのころ、犯行の目撃者を求めて聞込み中の捜査員が、日本交通株式会社の後楽園営業所において、同営業所の従業員が以前に麹町署管内で追突事故を起したところ、その時の被害車両が四六八〇車に似ているコロナ車であり、その車に乗っていた者二名が事故現場から立ち去ったことを聞かされ、同本部において調査してみると、この交通事故は、同年五月二七日午前二時三〇分ころ、千代田区麹町二丁目二番地先(通称麹町一丁目交差点)において、四谷方面から半蔵門方面へ向っていた、前記日本交通株式会社所属の運転手三好政仁運転のハイヤーが、同交差点で赤信号のため停止していた四三二三車に追突し、同車をして更にその前方に停止していた樋口芳雄運転のタクシーに追突させたというものであって、その際、四三二三車には、二名の男が乗っていたが、事故直後、近くの知っている医者に診て貰うなどと言って姿を消したこと、三好は同日最寄りの麹町警察署に事故の発生を届け出、同署員がその処理をしたが、車の窃盗犯人を特定することができず、所轄小金井署に移したものであり、現場を立ち去った男のうちの一人は髭を生やしていたことが判明したこと、そこで、同本部においても、右事故現場が公舎の南東約百数十メートルと極めて近く、二人の男のうち髭の生えている男は福冨ではないかとの疑いがあり、かつ、その挙動が不審であるため、公舎の下見に赴く途中で事故に遭ったのではないかとの強い疑いを生じたことから、被告人及び福冨の写真を他の写真とともに、前記三好及び樋口に示し、あるいは秘かに街頭でその姿を見せたところ、両名は、被告人及び福冨が前記二人連れに似ていることを認め、特に三好は髭の男は福冨に間違いないと断言したこと、その後同本部は、被告人及び福冨の居住地付近で四三二三車の目撃者につき聞込みを行い、それぞれ供述を得たうえ、これらを疎明資料として、前叙のとおり、被告人、須藤、岩渕、外狩らを窃盗と爆発物取締罰則違反等の嫌疑で次々に逮捕、勾留してその自白を得たほか、窃盗の嫌疑で、同年一一月六日福冨を、同月二三日桐野を(なお、福冨は終始否認していたため、同月二七日処分保留のまま釈放。)、また、爆発物取締罰則違反の嫌疑で同年一二月一五日右両名をそれぞれ逮捕、勾留し、その後被告人、須藤、岩渕、外狩については前叙のとおり、また、桐野については同年一二月一四日窃盗罪により、桐野及び福冨については同四七年一月五日爆発物取締罰則違反の罪により、それぞれ東京地方裁判所に起訴したこと、

以上の事実を認めることができる。

(二)  原判示第二の事実(爆発物使用の事実)について

1  目撃者の供述の信用性について

(1) 関昭夫の供述

同人は、公舎正門内側において犯人を捕えかけた際、ごく短時間であったが犯人と正対した時期があり、同人の認識としては、前記のほか、犯人甲の身長は一六〇センチメートルくらい、両手に白い手袋をはめ短靴をはいていたというのであるが、その顔付きについてはよく覚えておらず、東京地裁係属事件において証言したときも、被告人は犯人と似ているが断言できないと述べている(もっとも、同人は前記のとおり、犯人甲は髪を短く刈っていたと供述していたが、のち右事件の公判廷で必ずしもそのように断言できないと訂正しており、右証言は首肯しえない訳ではないから、犯行当時の被告人の髪が長めであったことを理由に、犯人甲が被告人ではないと断定することもできない。なお、その際、公舎正門斜め向い側にある長門ビル四階の窓から、犯人甲の姿を目撃した小野寺健二は、犯人の背丈は一六〇センチメートルくらい、黒っぽいシャツを着、痩せ型で髪は目立って長い方でも短い方でもないボサボサ髪であった旨捜査官に供述をしている事実が認められる((46・8・11、46・8・17各員面、謄本)))。

(2) 杉本洋子及び本橋ヒデ子の供述

杉本洋子は、自己の店舗の出入口ドアに施錠をしている時、前記のとおり、挙動不審の二人連れの男を目撃したが、甲は背丈一七五センチメートルくらい、痩せ型で年齢二七、八歳、髪は短く普通のサラリーマン風の髪型で髭はなく、紙袋と鞄を持っていた、乙は背丈一六〇センチメートルくらい、ずんぐりした体付きで年齢三〇歳くらい、黒縁の目鏡を掛け黒っぽい手提を提げていた、捜査が開始されたころ、須藤、福冨及び被告人と面通しさせられたが、須藤については少し似ていると、福冨については髭があるので違うと、また、被告人については背丈や体付きは似ていると述べた旨供述しており(東京地裁係属事件⑨公調証言及び46・12・20検面、いずれも謄本)、また、本橋は、杉本の直ぐ近くで二人連れを見ているが、甲は背丈一七五センチメートルくらい、乙は一六〇センチメートルくらいでずんぐり小肥りであったが、その顔などは見ていないと供述している(46・8・30員面、謄本)。

(3) 髙橋賢蔵の供述

同人は、八月七日午前零時ころ、前記給油所で田無方面からやって来た四〇年型くらいの古いコロナに給油をしたが、その車のナンバーは多摩の四六八〇で、色は弱い茶系のメタリック塗装、後部トランクの奥の仕切壁の真中辺りに縦に多少破れたところがあり、後部座席とリヤウインドの間に茶色のボストンバッグと新聞紙の包みが積んであった、年齢二一、二歳の男三人が乗っており、給油中三人とも車外へ出ていた、運転席にいた男から前記のような話を聞いたが、その男は背丈一六〇センチメートル(なお捜査官には一七〇センチメートルくらいと供述)、紺色のジーパンにグリーンのTシャツを着、茶色がかったサンダルをはいていた、眼鏡は掛けていないと思うし、髭はなかったように思う、他の二人の男らは背丈が一七〇センチメートルくらい、髭はなかったと思うし、髪は長めだった、そのうちの一人は後部ドア左側で車体にもたれるようにして立っていた、捜査段階で写真や面通しにより運転手は被告人に似ていると述べたが、しかし断言できない、給油後その車は新宿方面へ走っていった、警察へ通報したのち、本件四六八〇車を見せて貰ったが、当夜給油した車に間違いないと供述している(東京地裁係属事件⑩公調証言及び46・8・26員面、いずれも謄本)。

(4) 東郷隆興の供述

同人は、前記のとおり目撃したと供述しているところ、コロナの年式までは分らないが、白っぽい感じの金属製ロッカー色より若干薄い色であった、コロナから何か荷物が降された気配はあったがどんな物か分らなかった、その車は四、五分間停車したのち国道二四六号線の方向に向って発車した、その後間もなく午前一時二〇分ころ観光バスは発車をした、警察で四六八〇車の写真を見せて貰ったが、この型の車であったと供述している(46・9・4員面及び46・12・21検面、いずれも謄本)。

以上見てきたように、各目撃者の供述は、その内容を子細に吟味検討してみると、いずれも被告人の自白がある場合にその補強証拠とはなり得ても、それのみによって被告人及び福冨を本件犯行の実行正犯と断定することはできず、他に被告人らと右事実とを結びつけるに足りる物的証拠もない。そこで、被告人の検察官に対する自白調書及び原審公判廷における自白並びに須藤、岩渕の捜査段階における自白調書の信用性の有無を慎重に検討しなければならない。

2  被告人の自白の信用性について

原審において、原判示第二の事実につき取り調べた被告人の供述関係の証拠は、前叙の証拠能力を欠くと認めた司法警察員に対する各供述調書謄本を除くと、被告人の原審公判廷における供述のほか、前記46・12・15、46・12・23、46・12・29各検面(いずれも謄本)のみであり、右によれば、被告人は本件共謀の段階から犯行に至る全経過につき、原判示第二事実に沿う詳細な自白をしているが、当審における事実取調べの結果を合わせて検討してみると、以下に述べるように、被告人の捜査段階における自白には、一貫性がなく不自然に変遷している点、内容に合理性を欠く点、客観的事実と矛盾・齟齬する点、その他、共犯者の供述と食い違う点などが数多くみられ、信用性に乏しいと認められるほか、原審公判廷における自白も、捜査段階における自白を維持するに至った経緯、動機、供述内容などに照らせば、その信用性についてはなお疑問の余地があるといわなければならない。項を分かってこれを説示すれば、以下のとおりである。

(1) 捜査段階における自白の信用性について

イ 五月二六日夜の謀議 被告人は、昭和四六年五月二六日の夜、当時福冨が住んでいた渋谷区幡ヶ谷のマンションにおいて、同人及び桐野、須藤、岩渕、外狩らと雑談中、突然桐野が爆弾闘争の話を持ち出し、福冨及び被告人がこれに賛同して同夜直ちに公舎の下見に赴いたところ、前記の追突事故に遭った旨供述している(46・12・23検面、謄本)。しかし、他の証拠を検討してみても、この時期に桐野が右のような提案をした理由及び福冨がいかなる経緯でこの計画に加わり下見に出かけたのか、被告人と福冨が特に選ばれた理由などが明らかでなく、被告人の供述は如何にも不自然であるうえ、右下見に行った者について、被告人は当初桐野と福冨が行ったと伝聞した旨供述しており(46・12・9員面、謄本四丁のもの)、その供述に変遷がみられるばかりか、同席していた筈の須藤の供述も極めて莫然としており、被告人と福冨が下見に行ったことは知らなかったと供述するなど(46・12・25検面、謄本)不自然な食い違いがみられる。

ロ 七月二九日の謀議 被告人は、同年七月二九日の午後三時ころ前記岩渕方に被告人、桐野、須藤、岩渕、外狩の五人が集まった際、被告人が三里塚で仮処分が強行されたことを告げ、これからは拠点を守るだけでは駄目だ、などと主張すると、桐野がこれに賛同し「爆弾ならいつでも京都から手に入る。」と言って爆弾による闘争を提案したところ、岩渕と外狩が時期尚早を主張したが、結局これを抑えた旨供述をしている(前記46・12・23検面、謄本)。しかし、須藤は、三里塚仮処分の話は出ていない、爆弾闘争の話は出たが、岩渕、外狩の消極論で結論が出なかった旨(46・12・25、46・12・28各検面、いずれも謄本)、また、岩渕は桐野が三里塚の話をしたが、爆弾を仕掛ける話は出なかった旨(46・12・29検面、謄本)それぞれ供述し、被告人の供述と重要な点で食い違っている。

ハ 八月一日の謀議 被告人は、八月一日夕刻岩渕方において、同人及び桐野、須藤と、翌二日に桐野と須藤が京都に爆弾を取りに行き、被告人と福冨が下見をすることを話し合って決めた旨供述している(前記46・12・23検面、謄本)。しかし、須藤は、この日に岩渕を押し切って決行を決め、被告人と福冨が二、三日中に下見に行き、爆弾は須藤と桐野が近いうちに京都に行って持って来ることにした旨(46・12・24検面、謄本)、また、岩渕は、爆弾闘争について説得されたが、「君らやるならやりなさいよ、僕はやらないよ。」と言って計画に乗らなかった、その際、被告人が福冨の車で下見に行き、桐野は京都へ行くと言っていたと思う(46・12・29検面、謄本)と、それぞれ供述しており、被告人の右供述とかなり食い違っている。

ニ 八月六日ころの四六八〇車の動き

被告人は、犯行当日の四六八〇車の動きについて、八月四日ころ桐野から三里塚の山瀬が四六八〇車を貸せと言っている旨を聞いた、同月六日ころ福冨が十月社近くの喫茶店「タイムス」に同車を持って来ており、同日夕刻これを三里塚の山瀬が持っていったと思う旨当初供述していたが(46・12・9員面八丁のもの、謄本)、自白をしたのちは、犯行終了後貸す予定であったと供述を変え(46・12・13員面一三丁のもの、謄本)、更に、八月六日午後五時ころ十月社で桐野から四六八〇車を人に貸したような話を聞いた旨供述を変更したのち(前記46・12・23検面、謄本)、またも、46・12・29検面(謄本)において、犯行終了後山瀬に車を貸す予定であったが、乗り捨てたため貸すことができなくなった旨供述するなど、その供述が不自然に変遷しているが、この点を解明しうる客観的証拠はない。

ホ 本件爆弾の容れ物 被告人は、本件爆弾の容れ物について、当初爆弾は水色のナップザックに入っていたと供述していた(46・12・12員面一三丁のもの、謄本)が、46・12・13員面(一三丁のもの、謄本)においては、福冨から受け取ったのは、黒っぽいボストンバッグだったと供述を変え、更に46・12・15検面(謄本)では、このボストンバッグを開けてみると、中に青っぽいナップザックに入った爆弾があった旨具体的に説明するなどしたのち、46・12・23、46・12・29各検面(いずれも謄本)においては、黒ボストンではなく、透明ビニールのカバーのついた水色手提袋でその中に水色ナップザックが入っていた、前回述べたことは自分の思い違いである、自分はこの紙袋をリヤウインド右側の空間に置き、その左側に自分のボストンバッグを置いた、曙橋付近で須藤の車に乗り移った時、自分はボストンバッグを持ち、福冨はナップザックや手袋の入っている紙袋を持って走った、と再度供述を変更するに至った。この供述の変化には、前記髙橋賢蔵や杉本洋子の各供述に合致するよう誘導されたのではないかとの疑いを抱かせるものがあり、極めて重要で、真犯人であれば明確な記憶がある筈の事柄であるだけに、右供述の変遷は甚だ不自然というべきである。

ヘ 関町給油所における給油 被告人は、犯行当夜、一たん福冨、桐野とともに練馬区石神井一丁目四九八番地笠尾荘の福冨方へ爆弾を受け取りに行ったのち、前記エッソ関町給油所に立ち寄り、四六八〇車にガソリンを給油したうえ、西新宿の前記一〇月社に向かったと供述しているが、当初は、福冨と二人で乗車していた、二〇リットル入りの赤色補助タンクに給油して貰った、などと供述しており(46・12・12員面一三丁のもの、謄本)、不自然な変更がみられるところ、これも、前記髙橋の供述に基づき誘導が行われたとの疑いがない訳ではない。また、右給油所は福冨方よりも二キロメートル程田無寄りにあり、同所付近で深夜まで営業しているのが右給油所だけであったとしても、何故わざわざ回り道してまで同給油所に立ち寄ったかについて具体的な説明が全くなされておらず、不自然な感じを払拭し難い。

ト 神宮前表参道 被告人は、エッソ関町給油所から一たん十月社に戻り、そこで桐野を降ろしたのち、三里塚の石井新二と小川了の両名を乗せ、テント一張を積み込んだのち、福冨の運転で神宮前の表参道に赴き、フォークジャンボリーへ行く観光バスが二台停っているところで、右両名とテントを降ろし、午前二時近くに同所を出発し、青山通り、赤坂見附、報知新聞社前を通って公舎へ向ったと供述している(46・12・23検面、謄本)。しかし、前叙のとおり、観光バスの運転手の東郷は、多摩ナンバーのコロナからどんな荷物が降ろされたか分らなかった旨(なお、松本和子の東京地裁係属事件公調証言によっても、その際人や荷物がバスに乗せられた事実は認められない。)、また、このバスは八月七日午前一時二〇分に同所を出発したが、コロナはその少し前に同所から国道二四六号線(青山通り)の方向へ出て行った旨供述しているのであるから、被告人の供述は右証言と大きく食い違ううえ、本件の犯行時刻が八月七日午前一時五七分ころであって、折柄深夜のことでもあり、表参道から公舎までは車でせいぜい一〇分足らずの距離であることからすると、仮に東郷が目撃した車が本件の四六八〇車であったとすれば、被告人及び福冨は、犯行時刻の二〇分以上も前に公舎付近に到着したことになるが、被告人の供述によっては、そのような時間的空白が生じた事実は全く認められないのであるから、右によれば東郷が見たというコロナは四六八〇車とは別の車である蓋然性が極めて高く、被告人の右供述も誘導により得られた疑いが濃厚であるうえ、他に右被告人の供述の裏付となる証拠はない。

チ 本件爆弾のセット状況 被告人は、公舎手前で停車した四六八〇車の中で爆弾を取り出し、タイマーを七日午前三時ころにセットし電源のスイッチを入れたら豆電球がついたと供述している(46・12・16員面、謄本)。しかしながら、金木吉次の東京地裁係属事件④及び⑫各公調証言、いずれも謄本)、警視庁科学検査所長作成にかかる昭和四六年一〇月一一日付「鑑定結果回答について」と題する書面(謄本)によると、本件爆弾の配線の関係上右のようなことはあり得ず、右のようにした場合豆電球がつくのは、タイマーがセットされた時刻に電気回路を閉じたときに限られるが、その場合は、豆電球の先の回路に併列に結線されている手製雷管内のガスヒーターも灼熱し、グラスターの空かん及び油絵具の筆洗罐に詰めた黒色火薬を爆発させるに至ることが明らかであること、従って、時限装置をセットするには、スナップスイッチにより一たん回路を開放した状態でタイマーをセットしたのち、スイッチにより回路を閉じるか(この時豆電球は点灯しない。)、又は、右スイッチにより既に回路が開放されている場合に、更に、電源から豆電球に至る回路より先の結線を一個所取り外したうえスイッチを入れ(この時豆電球が点灯する。)、しかる後タイマーをセットして(この時豆電球が消灯する。)先の結線部分をより合わせるなどして回路を閉じるかの二通りの方法があり、後者は時限回路の状態、特に、電池のテストをも兼ねた方法であることが認められる。してみると、被告人の供述は右の客観的証拠に全く相反する不自然で不合理なものといわなければならない。また、本件爆弾のタイムスイッチが通電状態となったのは、同日午前四時三六分ころであると認められるから(石丸金弥の東京地裁係属事件、公調証言、謄本)、この点においても被告人の供述は客観的証拠と齟齬している。

リ 曙橋付近の状況 被告人は、犯行後四六八〇車を市ヶ谷の自衛隊の前を通過した直後乗り捨て、福冨と二人で新宿方面へ走り、曙橋の下付近(曙橋から東へ二〇数メートル離れた地点)に新宿方向を向いて停車していた須藤運転の車に乗り移った旨供述し、また現場で指示している(46・12・18員面、謄本及び46・12・29西海ほか四名作成の実況見分調書、謄本)。しかし、須藤は同陸橋下の空地に車を靖国通りの方向に向けて停車していたと供述し(46・12・7員面一〇丁のもの、謄本)、のち同陸橋脇の通路と供述を変更していることが認められるが、被告人の供述とかなり食い違っている。

ヌ 須藤の帰宅経路 被告人は、犯行後十月社へ戻ったのち、桐野と被告人は須藤の車で家まで送って貰った旨供述している(46・12・29検面、謄本)。これに対し須藤は、当初、十月社で福冨と被告人を降ろしたのち被告人をその自宅まで送って帰宅したと供述したが(46・12・7員面一〇丁のもの、謄本)、その後、十月社で福冨と被告人を降ろして帰宅したと供述を変更している(46・12・22検面、謄本)のであって、被告人の供述と大きく食い違っている。そして、仮に被告人の供述通りであるとすれば、午前一時五七分ころ犯行に及んだ被告人らを須藤は曙橋付近で拾い、深夜とはいえ土曜日の夜の新宿を通過し、十月社から中野区弥生町の被告人方を経由して午前二時三五分過ぎころ、北区上中里の須藤の自宅に着くことは仲々困難であると考えられるから、この点で被告人及び須藤の同趣旨の供述はかなり不自然で不合理である。

(2) 原審公判廷における自白の信用性について

原審記録並びに当審における事実取調べの結果によれば、被告人は前叙のとおり起訴されたのち、いわゆる分離公判を望み、原審公判廷においては原判示の各事実をおおむね認め、ただ、原判示第二事実につき爆発物使用の目的を争ったにとどまったが、昭和四七年四月五日に予定された判決宣告期日の前日、前記五月二六日夜の交通事故及び原判示第二事実を否認する旨の上申書を作成し、右期日に懲役五年(未決勾留日数中六〇日算入)の実刑判決を受けるや控訴の申立をなし、当審においては、原判示第一の事実を含め全面的に事実を争うに至った。被告人は、原審第二回公判期日に検察官及び弁護人らから質問を受けているが、その際、捜査段階における供述は間違いないと述べたほか、原判示第二事実については、具体的な質問が少ないまま供述を終っていることが認められる。従って右供述は甚だ具体性がないばかりか、前叙の数々の疑問をなんら解明するところがなく、そのままこれを内包しているといわざるをえない。そのうえ、被告人は捜査段階においてはともかく、原審公判廷においても従前の自白を維持した理由として、当審公判廷において次のように陳弁している。すなわち、被告人は、捜査段階において、伊藤まゆ及び西垣内堅佑の両弁護人を解任し中野允夫弁護人を選任したところ、同弁護人から、本件爆弾の威力などからすれば執行猶予も可能であるような話を聞き、また、当時他の共犯者らと異なり、被告人のみは起訴後も麹町署に勾留され、陰に陽に従前の自白を維持するようしょうようされ、原審係属中の昭和四七年三月八日保釈々放後も警察官の訪問を何回も受けるなどしたので、心ならずも従前の自白を維持していたが、いよいよ判決言渡の時期になって、やはり真実を述べるべきであると決心し否認に転じたというのであり、右の経過について、あながちこれを首肯し難いとすることもできないから、以上によれば、原審公判廷における自白についても、捜査段階における自白と同様その信用性については、なお疑問の余地があるとしなければならない。

3  須藤及び岩渕の各供述の信用性について

原審において原判示第二の事実につき取り調べた須藤の供述調書は、原判決挙示の46・12・9、46・12・15、46・12・22、46・12・24、46・12・25、46・12・28各検面(いずれも謄本)の六通であり、また、岩渕の供述調書は、46・12・23、46・12・28、46・12・29各検面(いずれも謄本)の三通であるが、右各調書においては、主として本件共謀の点に関し、原判示第二事実に沿う供述がなされているところ、当審における事実取調べの結果によれば、右供述についても、前叙の諸点のほか、以下説示するように、被告人の供述と甚だしく食い違う点、一貫性がなく不自然に変遷している点、客観的事実と矛盾・齟齬する点などが多々見受けられ、その信用性についてはなお疑問の余地があるといわなければならない。

(1) 須藤の当初の自白 須藤は、七月末ころ学習会の席で、桐野が警視総監の家に爆弾を仕掛けてみようと言い出し、爆弾の製造は福冨に任せようということになり、須藤の家で使っている油絵具の空罐を福冨の家に届けたことがあるけれども、その後の製造には関係していない旨当初供述したが(46・12・9検面、謄本)、のち、前叙のとおり供述を変えているところ、両者はその内容において甚だ異質なもので、その変遷は不自然というべきである。

(2) 外狩の謀議出席 須藤は、謀議が行われた八月一日及び同月四日に外狩が出席していた旨供述し(46・12・15検面、謄本)、岩渕も八月一日の謀議の際外狩が出席していた旨供述したが(46・12・23検面、謄本)、右両日外狩は帰省していて不在であることが証拠上明らかであるから、右各供述は客観的事実に反するものであり、右事実が明らかとなったのち、須藤、岩渕はこれに沿うよう供述を訂正しているのであるが、かかる重要な事項について共犯者中二人までが誤った供述をしたのは、捜査官の誘導によるものではないかとの疑いを禁じ得ない。

(3) 本件爆弾の入手先及びその操作方法等に関する認識 須藤は、八月三日午後五時三〇分ころ、東京駅で桐野と待ち合わせて京都へ行き、銀閣寺付近のアジトに一泊し、翌四日朝同所で本件爆弾を入手し、同日午後二時ころ東京へ帰って来た、爆弾の使用方法もそのとき教わったが、タイムスイッチで時間を合わせたのちスイッチを入れると豆電球がついてタイムスイッチが作動する、時間がくるとびんの形をした罐に点火し爆発を起こし、その爆発力によって横の筆洗具の爆弾が誘爆するということだった、と供述し、また図示している(46・12・15、46・12・24各検面、いずれも謄本)。しかし、右爆弾の入手先について、捜査官らは飯田真司を取り調べたものの結局は起訴することができず、右供述を裏付けるに足る証拠を欠いているうえ、前叙のとおり、爆弾の使用法についての説明は誤りであって、その図面も不正確なものである。また、岩渕は、八月四日の謀議の席上で本件爆弾を見たといい、これを図示している(46・12・23検面、謄本)。しかし、その図面は本件爆弾と甚だしくその形状を異にしているのであって、本件犯行の手段、方法に関する供述であるだけに、右の誤りには容易に看過し得ないものがあるといわなければならない。

4  アリバイの主張について

なお、所論は、(1)桐野は、昭和四六年八月一日午後七時ころから午後一〇時ころまで通夜に参列していたから同夜の謀議には参加できなかった旨、(2)須藤は、同月三日夕刻から四日午前まで東京都内で仕事をし、桐野も医院に通院するなどして自宅にいたから、京都に爆弾を取りに行くことができなかった旨、(3)また、被告人は、同月六日午後一二時前ころから七日午前一時過ぎころまで、須藤、桐野ほか友人の後藤邦雄、伊藤博司らと都内中野区弥生町の当時の被告人方住居で飲食、談笑していたから、本件犯行現場には居なかった旨を述べ、本件謀議及び実行行為に際し、被告人及び共犯者らにアリバイがあると主張している。

しかしながら、(1)の点については、桐野が八月一日夜国電飯田橋駅近くの警察病院で行われた知人鴻巣泰三(劇作家、ペンネーム福田善之)の母親の通夜に列席したことは認められるが、その時刻は午後八時前後であるというのであって(鴻巣泰三の東京地裁係属事件公調証言)、かなり時間の幅があるところからすると、同日夜の謀議が午後八時ころ終った旨の須藤の供述(46・12・24検面、謄本)や、午後九時か一〇時ころ終った旨の岩渕の供述(46・12・23検面、謄本)を前提としてみても、当夜桐野は謀議終了後、又は途中で右通夜に参列したと認めることもできない訳ではないから、この事実をもって桐野が右謀議に参加することができなかったとはいえない。右認定に反する証拠は総て信用できない。(2)の点については、室川幾久夫の東京地裁係属事件公調証言の所論に沿う供述部分は、一〇年を経過したのちの証言であるのに、八月四日のみの記憶が鮮明であるうえ、記憶の根拠についての説明に十分首肯しうるものがなく、また、受領証綴り(加瀬ガソリンスタンド、謄本)中の八月四日付美田合成のものには、車番欄記載に訂正、加筆が施され、「御署名」欄に須藤正のイニシャルを示す「ST」なるローマ字の記載があると一応認められるものの、そのうち「S」の字には加筆した跡があるなど、にわかにその記載を信用しがたいものがあり、その他所論に沿う証拠と合わせて検討してみても、未だ所論主張の事実を裏付ける証拠があるものとは認められない。また、辻塚智子に対する東京地裁係属事件の証人尋問調書及び同人作成の証明書によると、桐野が八月三日及び四日の両日淀橋歯科において抜歯治療を受けたことを認めることができるが、診察券(謄本)の裏面の記載をもってしても、同月四日の予約時刻を確定することはできず、もともとこうした予約は、患者側の都合をも加味して決められる性質のものであるから、桐野に所用があれば午後の時間が選ばれるであろうことはみやすいところであって、抜歯治療の事実が認められるからといって、同人に八月四日午前中京都に居なかった旨のアリバイが成立する、などということはできない。その他の所論に沿う証拠は総て信用できない。次に、(3)の点については、後藤邦雄及び伊藤博司の当審⑭各公調証言によると、所論に沿う事実を認めることができるが、しかし、久保裕の当審~公調証言によれば、久保検事が昭和四七年二月一九日ころ、当時詐欺で築地警察署に逮捕され、釈放された直後の後藤からこの点につき事情聴取をしたところ、後藤は、同四六年七、八月中に被告人、須藤及び伊藤と会ったことがない旨供述したが、供述調書の作成を拒否したので、そのころその旨の捜査報告書を作成した事実が認められる。そして、須藤は八月七日麹町警察署で事情聴取された際、当夜は被告人とともに午後九時ころから午前零時ころまでニュートップスに居て、その後被告人のアパートへ行き午前一時四〇分ころ帰宅した旨供述したにとどまり、なんら所論に沿う供述をしていないこと(46・12・22検面、謄本)、須藤をはじめ被告人も(47・1・11検面、謄本)伊藤に働きかけてアリバイ工作をした旨捜査段階で具体的に供述をしていることを合わせ考えると、所論主張の事実は到底認めることができない。右争点について当審において取り調べた証拠は、いずれも右認定を左右するに足りないか、又は信用することができないものである。

以上のとおり、アリバイに関する所論の主張は総て理由がなく失当である。

(三)  原判示第一の事実について

1  目撃者らの供述の信用性について

当審における事実取調べの結果によれば、原判示第一の犯行後、四三二三車を被告人らが運転するなどして使用していたとの事実に関する目撃者らの供述が存在するが、以下に述べるとおり、いずれも右事実を十分に立証し得るものとは認められない。

(1) 三好政仁及び樋口芳雄の供述

右両名は、昭和四六年五月二七日午前二時三〇分ころ麹町一丁目交差点で発生した二重追突事故に関し、前叙のとおり捜査段階で供述したが、東京地裁係属事件の公判廷においてはかなりその供述が後退し(三好につき右事件⑨公調証言、樋口につき同⑥公調証言、いずれも謄本)、三好は、福冨については「完全にこの人だということは確信をもって言えない。」旨、被告人についても「もう一人の人が二瓶とは断言できない。」旨、また、樋口は、二人連れのうち背の高い方は鼻の下と顎のところにずっとつながった髭があった、そして、自分が指さした人物が乗っていたとはっきり言えない旨それぞれ供述するに至っている。

(2) 杉並区堀の内の住民の供述

被告人は、昭和四六年五月二三日まで杉並区堀の内三丁目二九番五号所在の小長谷アパートに居住していたが、右アパートの二階に居住している軽部清八は、捜査段階においては、被告人がアパートから引越しをした五月二三日及びその前日の二二日の両日に、六四年式のどす黒いコロナがアパートの門の外側に駐車しており、被告人及び須藤らがこの車に引越荷物を積み込んでいるのを見た、この車は引越の日の一五日くらい前から、付近の森下方の前に度々駐車していたなどと、あたかも四三二三車と被告人らとの間に密接な関連があるかのような供述をしていたが(46・10・14員面、謄本)、東京地裁係属事件の公判廷においてはその供述があいまいとなり、五月二三日にチャコールグレーのような色の古い型のコロナを見たが、荷物を運び込んでいた者や運転していた者は見ていない、前日も同じ車が停っていたが誰が扱ったか分らないと供述するに至っている(右事件⑥、⑦各公調証言、謄本)。その他、四三二三車の目撃証人らの供述も、同年五月ころ小長谷アパート近くで古い型のコロナらしい車を見かけたという程度にとどまり、四三二三車と被告人との結び付きを認めるに足りる証拠に乏しく、他に指紋その他の物証も見当たらない。

2  被告人の自白の信用性について

原審において、原判示第一の事実につき取り調べた被告人の供述関係の証拠には、被告人の原審公判廷における供述のほか、46・11・7、46・12・23、46・12・27、46・12・8、46・12・13、47・1・3各員面(47・1・3員面は謄本)、46・11・26検面(謄本)及び46・12・5上申書があり、右によれば、被告人は本件共謀の段階から犯行に至る全経過につき、原判示第一事実に沿う自白をしているが、当審における事実取調べの結果を合わせて検討してみると、以下に述べるように、被告人の捜査段階及び原審公判廷における自白には原判示第二事実の検討の際述べたと同様の欠陥がみられ、その信用性が乏しいと認めざるをえない。

(1) 捜査段階における被告人の自白

イ 窃盗の謀議 被告人は、本件窃盗の謀議に関し、昭和四六年五月初めころの午後八時ころ、岩渕方に被告人、桐野、須藤、外狩及び岩渕の五人が集まったとき、車を窃取する話が出、その後、同月五日の夜同家に右五名の者と佐藤憲一及び国分葉子らが集った際、皆で車を盗むことを決めた旨供述している(46・12・8員面)。しかし、須藤は五月五日の謀議の際、佐藤憲一がいたとは供述しておらず(46・12・8検面、謄本)、外狩は盗む話をしたのは五月四日ころでその日に五名のほか十月社に出入りしていた倉本もいた、翌五日の謀議の際は、佐藤、国分のほか長谷川エミ子もいたと供述し(46・12・10員面、謄本)、一方、岩渕は、五月五日に佐藤がいたかどうか分らない、自分は盗むことに反対だったと供述している(46・12・10検面、謄本)のであり、共謀の日時、出席者の顔触れなどにつき食い違いがみられる。

ロ 五月七日夜の出発時刻等 被告人は、犯行当夜の五月七日に岩渕方を出発した時刻につき当初午後九時ころ出発し、午後一一時ころ到着したと供述したが(46・11・23員面)、次第に出発時刻を遅らせ、最後には出発したのは午後一〇時ころと供述を変更している(46・12・5自供書)。これに対し、須藤は、出発時刻は右と同様であるが、到着時刻を翌八日午前零時三〇分ころないし出発の二時間後くらいと(46・12・2検面、謄本)、また、外狩は、出発時刻を午後一〇時、同一一時と変えたのち、午後一〇時三〇分ころ出発し、午後一一時ころ到着した旨(46・12・11検面、謄本)、更に、岩渕は午後一〇時ころ出発、同一一時ころ到着したが、途中で車を停めて犯行の打合わせをした旨、他の共犯者らと異なる事実を付け加えて(46・12・10検面、謄本)、それぞれ供述しており、各人の供述に変遷があるほか、相互にかなり食い違いがみられる。

ハ 現場に至る往路 被告人は、犯行現場に至る往路について、新青梅街道を三多摩の方向に走った旨供述している(46・11・22員面六丁のもの、謄本)。しかし、須藤は、井ノ頭通りを通った旨(46・11・30員面一八丁のもの、謄本)、また、外狩は、青梅街道、五日市街道を通った旨(46・12・10員面、謄本)、それぞれ食い違った供述をしている。

ニ 現場の状況に関する被告人の認識

被告人は、現場の状況を説明し、図面を書いているが(46・11・22員面六丁のもの、謄本)、甚だ不明確であるうえ、犯行時かなり離れたところで見張りをしていたので、四三二三車を見ていないと供述している(司法警察員西海喜一作成の46・11・26実況見分調書、謄本中の被告人の指示説明部分及び46・11・26検面、謄本)。しかし、須藤の現場における指示説明によると、被告人は前記供述と異なりC一号館北側路上で見張りをしていたとされており(司法警察員小出英二外一名作成の46・12・3犯行現場確認捜査報告書、謄本)、この位置からなら四三二三車を視認し得たと考えられ、また、岩渕は外狩の要請で自分と被告人が車の後押しをしたと供述している(46・12・8員面、謄本)から、この点について他の共犯者の供述と大きく食い違っている。

ホ 帰路 被告人は、四三二三車の窃取後現場を離脱する際の状況について、不自然に供述を変え、結局被告人が乗車していた須藤運転のフローリアン車は、本町住宅団地内を通り五日市街道に出て間もなく四三二三車と合流し、これに追従して帰路についた旨供述している(46・12・8員面及び前記西海作成の実況見分調書、いずれも謄本)。しかし、須藤は、自分の運転する車は団地に入って来た道を出て行き、外狩の運転する四三二三車は一たん別の方向へ行ったあと、現場からそう遠くない地点で合流した旨(46・12・2検面、謄本)、外狩は、現場で四三二三車のところに須藤車が来てから、自分が四三二三車を運転して先行した旨(46・12・1員面、謄本)供述し、相互に大きく食い違っている。なお、被告人、須藤及び外狩は、その際四三二三車は外狩が運転し、これに佐藤、岩渕が乗ったと供述しているが、岩渕は、被告人が当初外狩とともに四三二三車に同乗し、自分は須藤車に乗った旨一人異なる供述をしている(46・12・10検面、謄本)。

ヘ 窃取後の四三二三車の使用状況

被告人は、窃取後四三二三車には外狩、須藤が乗っており、ときどき福冨が乗っていた旨供述している(46・11・26検面、謄本)。しかし、須藤は当初外狩が乗り、のちには福冨が使っていた旨(46・11・30員面一八丁のもの、46・12・8検面、いずれも謄本)、また、外狩は、一度だけ乗ったことがある、同車は桐野らが十月社の活動に使っていたと思う旨(46・12・5、46・12・10員面、いずれも謄本)、岩渕も、一度楼蘭公司で使用したが、あとは十月社で使っていたと思う旨(46・12・10検面、謄本)それぞれ供述しており、車の使用状況が当初の窃取目的とかなり異なっているうえ、各人の関心も低く、かつ、供述が相互に食い違っていて不自然である。なお、車の保管状況に関し供述しているのは被告人のみであるが(46・12・8員面)、この点については、前叙のとおり裏付けとなる客観的証拠に乏しいといわなければならない。

ト 五月二七日夜の交通事故 被告人は、前叙の五月二七日の追突事故の際、四三二三車に乗っていたのは福冨と桐野に間違いないと一貫して供述していたが(46・11・19、46・11・20、46・12・9((四丁のもの))各員面及び46・11・22検面、以上いずれも謄本)、のちに自分と福冨が乗車していたと供述を変更している(46・12・15、46・12・23各検面)。ところが、須藤も右と同様の供述の変更を殆んど日を同じくして行っているところからすると、この点については捜査官の誘導によるものではないかとの疑いがある。

(2) 原審公判廷における被告人の自白

前叙のとおり、被告人は、原審公判廷において本件窃盗の事実を認めているが、そのほか、東京地方裁判所刑事二八部二係に係属していた外狩の窃盗被告事件第二回及び第三回各公判期日(昭和四六年三月二一日及び同年四月一一日)に証人として喚問された際、検察官の主尋問に対しては外狩の名は伏せたが、大筋において原判示第一事実につき自分が参加したことを認める趣旨の証言をしている。そして、弁護人の反対尋問に対し、初めて記憶がないなどといって不明確な証言をするに至っているところ、被告人は、当時既に本件につき実刑判決を受けており、また、保釈釈放中であったにもかかわらず、本件犯行を全面的に否認するほどの証言はしていないのであって、この点において、被告人が原判示第二の事実については、判決宣告前にこれを否認する旨の前記上申書を作成したことと対比し、疑念を禁じ難いものがあるが、被告人が、原審公判廷において捜査段階における自白を維持した動機の点については、前叙のとおりこれを首肯し難いとすることもできず、また、原審公判廷における自白は、捜査段階における前述の被告人の自白及び後述の共犯者らの供述に存する数々の疑問をそのまま内包していると認めることができるから、原審公判廷における自白についても、捜査段階における自白と同様その信用性については、なお疑問の余地がない訳ではない。

3  外狩、須藤及び岩渕の供述の信用性について

原審においては、原判示第一の事実につき、外狩の46・12・11、及び須藤の46・12・2、46・12・3、46・12・8並びに岩渕の46・12・10各検面(いずれも謄本)を取り調べているが、右はいずれも原判示第一事実に関し、犯行の全経過にわたる自白を内容とするものであるところ、当審における事実取調べの結果によれば、原判示第二事実の検討の際述べたと同様の欠陥がみられ、以下述べるところに照らしても、その信用性については疑問の余地があるといわなければならない。

(1) 現場における四三二三車の駐車位置 須藤は、四三二三車が駐車してあった場所に関し、当初団地の南側と図示し(46・11・30員面一九丁のもの、謄本)、のち、C一号館北側三差路付近と訂正したが(前記小出外一名作成の報告書、謄本)、更に、右三差路よりもっと西寄りであって、三差路のところまで車を押し出した旨供述を変更している(46・12・7員面一三丁のもの、謄本)。また、岩渕も、車の位置を右三差路の西側寄りで、車の向きは東向きであったと供述しているが、司法警察員北岡均作成の46・11・1実況見分調書によると、犯行当夜四三二三車はC一号館の斜め左前にある三差路付近に西向きに駐車してあったと認められるから、右各供述はともに客観的事実と齟齬するものである。

(2) 窃取方法 外狩は、四三二三車を窃取するに当たり、ドライバーで三角窓をこじ開け、手を差し込んで運転席ドアの窓ガラスを降ろし、そこから手を入れてドアのロックを外した旨供述している(46・12・11検面、謄本)。この一連の動作は、同車の三角窓の下枠部分にドアロックボタンがあり、ドア開閉用の内ハンドルはその下方約六センチメートルのところにあるが、窓ガラス開閉用ハンドルは更にその下方二〇数センチメートルのところにあること(倉地孝憲の東京地裁係属事件公調証言、竹内康二作成の写真撮影報告書)からすれば、当時懐中電灯を持った佐藤は傍らにいたが、格別外狩の手元を照らしていた訳でもなく(外狩は、直結時に照らして貰ったと供述している。)、また、外狩の気持が平静でありえなかったことは十分推察しうるところであるから、このような迂遠な方法をとる可能性がないとはいえないとしても、本件犯行が事前に下見をし、対象車を決めて行われた計画的なものであることを前提とすれば、やはり不自然な感じを免れないというべきである。

(3) 直結の方法 外狩は、四三二三車のスイッチ部分を取り外し、用具を用いてコードを切断するなどしたうえこれらをつないでいわゆる直結にし、「押しかけ」の方法でエンジンを始動した旨供述しているが、使用した用具の点について、ペンチ、プライヤーと供述を変えたのち、最終的にはニッパーとしている(46・12・12員面、謄本)。しかし、この供述の変遷は極めて不自然であって、捜査官の誘導の疑いが強い。また、直結の方法について、三本の配線のうち二本を結び合わせもう一本はぶらぶらしたままにしたと供述しているが(46・12・10員面、謄本)、同車のスイッチ部分の配線は四本であるうえ、外狩の供述どおりとすれば、右のうちバッテリー線とイグニッション線を結線したことになる(三村隆の東京地裁係属事件、各公調証言)ので、外狩の右供述は配線の数を誤り、引いては結線の方法についても具体性を欠く結果となっている。更に、外狩は、車を約五〇メートルくらい移動したのち、直結作業をして「押しかけ」をした旨供述している(46・12・11検面、謄本)。しかし、須藤(46・12・8検面、謄本)及び岩渕(46・12・10検面、謄本)は、当初四三二三車が駐車していた地点で直結作業をし、そこから「押しかけ」をした旨供述をし、須藤は現地においてその旨指示をするなどしており(前記小出外一名作成の報告書、謄本)、外狩の供述と甚だしく食い違っている。

4  岩渕、外狩のアリバイの主張について

なお、所論は、岩渕、外狩の両名は、昭和四六年五月七日午後一一時ころの本件犯行時にスナック「渕」にいた友人達と飲食していたから、右犯行に加わっていなかったとして、同人らのアリバイを主張している。

しかしながら、当審における事実取調べの結果によれば、弁護人側のこの点の証人中森川健一、梅原正紀、羽永光則こと羽永義雄及び中沢教輔が、五月七日の午後八時前後ころから午後一〇時ころまでの間に相次いで岩渕が経営する新宿区三光町地内のバー「渕」に来店して飲食したことは認めることができるとしても、同夜岩渕が午前零時過ぎの閉店間際まで、おおむね同店内にとどまっていたとする供述部分については、以下の理由によりにわかに信用し難いというべきである。すなわち、梅原は、本件の捜査段階で検察官から事情聴取された際、午前零時過ぎに岩渕が同店にいたことは間違いないが、それ以前のことについては断言できない旨供述していたにもかかわらず、約二年を経過した当審第四回、第五回各公判期日においては、森川や羽永によって記憶がよみがえったとして、岩渕が右時間帯に同店にいた旨を具体的に供述していること、森川、羽永、中沢らも、本件後一〇年以上経過した東京地裁係属事件の公判廷(森川につき第一九七回、羽永、中沢につき第一七三回各公判期日)に証人として喚問されるや、右同様、具体的に岩渕の行動をまじえながら、同人や外狩が閉店間際まで「渕」にいた旨供述しているが、その記憶の根拠が明らかでなく、特に、中沢は捜査段階において同夜外狩と一緒に飲みにいっていないと述べていること(中沢は、警察官から外狩と「プアプア」へいったかとの質問があったので、その事実は五月一四日のことであったため否定したと証言しているが、子細にその供述を検討すると、かかる限定がついていた質問であったとも思われない節がある。)、右三名の供述中には共通の事項(例えば、梅原が閉店間際に岩渕和恵から指圧をして貰ったこと、森川が岩渕にからかわれたことなど)が含まれているが、飲酒中の出来ごとについて、しかも、長年月を経たのち異口同音ともいうべきこのような供述がなされるのは甚だ不自然であること、右四名とも岩渕とかねて交際があり、特に、昭和四五年夏に梅原が関与していた公害企業主呪殺僧団が全国行脚を行った際、岩渕はその一員として参加し、中沢は雑誌編集者の立場から、また、羽永、森川はカメラマンとしてこれに同行するなどしたものであって、岩渕とは親密な間柄であったこと、同夜同店には他にかかる特別な関係がない一般のなじみ客もかなりいたとされているのに、それらの者の証言が得られていないこと、などの諸点を合わせ考えると、同人らのアリバイ証言の信用度は低く、右各供述によって、所論アリバイの存在を認める訳にはいかないのである。また、新藤孝衛は、五月中の「渕」の伝票を示されて尋問されたが、五月七日「渕」で外狩と出会い、いわゆる採用面接をしたか否かにつき記憶がない旨供述をしているところ(東京地裁係属事件公調証言)、これが五月七日であるとする港雄一こと小平貞雄の供述(右同公調証言)は、その記憶の根拠を示すメモ(手帳)の呈示がないばかりか、記憶喚起の時期、方法がかなり不自然であって信用に値いしない。また、「渕」の伝票一綴(四、五月分、三一〇枚)は、その形式、体裁、作成者等の点から考え、十分な証明力があるとすることはできない。その他所論に沿う証拠は総て信用できないから、右所論は失当である。

四  結論

以上のとおりであって、被告人は、原判示の各事実につき、捜査段階において検察官に対し自白しているばかりでなく、原審公判廷においてもおおむね右自白を維持しているのであり、これに当審に至って主張されたアリバイの存在が認め難いことをも考え合わせると、被告人が原判示の各犯行に及んでいるのではないかとする疑いも払拭し切れないものがある。しかしながら、前叙のとおり、本件捜査の過程において看過することのできない利益誘導が行われていること、的確な目撃証言等を欠くなど客観的証拠に乏しいうえ、被告人及び共犯者とされた者らの供述には数々の欠陥が認められ、重要な部分に客観的な裏付け証拠を欠くなどその信用性につき疑いが存することは否定し難いところであるから、これらの事情を合わせ考えると、原判示第一及び第二の各事実につき被告人を有罪とするについてはなお合理的な疑いを入れる余地があるというべきであり、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則に従い、結局、本件は犯罪の証明がないことに帰する、としなければならない(ちなみに、本件の共犯者とされた前記福冨、桐野、外狩、須藤及び岩渕については、昭和五八年三月九日東京地裁刑事第二部において無罪判決の言渡があり、右判決は第一審において確定している。)。したがって、本件について有罪の言渡をした原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があり破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、弁護人らのその余の控訴趣意に対する判断を省略し、刑訴法三九七条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により当裁判所において更に次のとおり判決する。

三  当裁判所の判決

本件公訴事実の要旨は、

被告人は、

(1)  須藤正らと共謀のうえ、昭和四六年五月七日午後一一時ころ、東京都小金井市本町四丁目五番一ノ一七先路上において、伊藤照子管理にかかる普通乗用自動車(トヨタコロナ多摩五せ四三二三)一台(時価約六万円相当)を窃取し、

(2)  福冨弘美らと共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体、財産を害する目的をもって、昭和四六年八月七日午前一時五七分ころ、東京都千代田区一番町二三番地警視総監公舎玄関脇に黒色火薬を使用した時限装置付手製爆弾を装置し、もって、爆発物を使用した。

というのであるが、これら事実については、前叙のとおり、犯罪の証明がないから、刑訴法三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 寺澤榮 裁判官 荒木勝己 裁判官 仙波厚)

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